N ハイデルベルク城

●ハイデルベルク城は、プファルツの国を治める選帝侯の居城であった。
ドイツでは、1386年の金印勅書で、7人の選帝侯によって、ドイツ皇帝が選ばれることになっていた。特にこのプファルツの選帝侯は、その中でも筆頭の地位にあり、ドイツ皇帝が不在のときは、代理を務め、戦争の指図や貨幣を鋳造する権利を持ち、帝国議会の裁判長でもあった。つまり単なる貴族ではなくヨーロッパ史のなかでも、重要な役割を果たした。

●17世紀の2度の戦争によって、ハイデルベルク城および町は、徹底的に破壊される。

●30年戦争(1618−1648)
宗教戦争であるが、一面では国家間の闘争であり、当時の城主フリードリッヒ5世は、英国生まれの妃エリザベス・スチュワートのために、城に庭園をつくり城の防御施設を大幅に縮小したために、容易にティリー将軍に城と町を包囲される。
●プファルツ継承戦争
フリードリッヒ5世の実子、カール・ルードウィッヒは、娘のリゼロッテは、フランスのルイ14世の弟オルレアン公と政略結婚させられる。やがてハイデルベルクの城主であった兄のカールが亡くなると、フランス王ルイ14世は、リゼロッテの結婚の際の契約を破り、プファルツは、自分達が相続できると主張した。ハイデルベルク側がそれをはねつけたことから、プファルツ継承戦争がはじまった。フランスはメラク将軍の指揮のもと、1689年と1693年と2度、ハイデルベルクを攻めてきた。特に2度目の1693年の攻撃は、すさまじくハイデルベルクは、灰燼に帰した。

●その後、宗教戦争で敗れたカール・フィリップは、ハイデルベルクを去って、マンハイムに宮殿を建てて移ってしまう。次代のカール・テオドールは、城を修復しようと計画したが、1764年工事中、城は落雷により炎上。修復工事は、中止される。


●18世紀後半、城は荒れるにまかされたが、19世紀になって、フランスのグライムベルク伯が、古城の修復に尽くした。ハイデルベルクの住民は、城の石を持ち出して自分達の家を建てていたが、それを禁止し、城の全面的な再建は断念するにしても、現存する建物を保存する方針が、町として定められた。

●廃墟となったハイデルベルク城の風情は、ロマン主義の芸術家を魅了し、多くの詩人、画家がハイデルベルクに集まった。特に画家は、この城をモチーフにして作品を発表した。ネッカー川にある古城跡、古い町並みを、ロマン主義の手法で、描き一派を成したのである。

●現在、城は、バーデン・ヴュッテンブルク州の財産として管理されている。



ハイデルベルク城  略図


@城入口

●山の中腹にある「ハイデルベルク城」に上がってくるには、3つの方法がある。ひとつは、コルンマルクト近くに乗り場があるケーブルカーに乗ってあがる。(乗車時間 約5分)ひとつは、車やバスであがってくる。その場合この@のところが駐車場となる。夏の観光シーズン中は、ツアーの大型観光バスで一杯になる。そしてもうひとつは、徒歩であがってくることである。一歩一歩足で上がるのは、いい運動になるだけでなく見えてくるパノラマにも感激もひとしおだろう。(徒歩で約20分)

ケーブルカー
●コルンマルクト裏の駐車場が、乗り口
城まで:大人5.5DM 子供3.5DM
城まで、乗り込めば、あっという間についてしまう。
ケーニッヒ・シュトゥール(山の頂上まで):
大人8.5DM 子供6DM

たいていの人が、城で降りてしまうが、城の次が「モルケンクア」という駅で、昔城の火薬貯蔵庫があったところである。
最後が、王様の椅子という意味の「ケーニッヒ・シュトゥール」という頂上で、568mある。テレビ塔、展望台、小さな遊園地、レストランなどがある。
時間があれば、ぜひここまで上がられることをお勧めします。

Aゲーテ記念碑
●ドイツを代表する文豪ゲーテは、この町をを愛し、生涯で8度ハイデルベルクを訪れている。恋多きゲーテの最後から二番目の恋人が、ハイデルベルクで知り合ったマリアンネ・フォン・ヴィレマーという人で、彼女のことを、ゲーテは、「西東詩集」のなかで、「イチョウの歌」という詩にしている。ロンデルの手前に、「イチョウ」の木が植わっているのだ。マリアンネは、当時16歳で、踊り子だったという。(ゲーテは、66歳)木陰に石碑があり、「ここで私は、ゲーテと愛し愛され幸せだった。」という彼女の日記の一部が刻まれている。

Bロンデル「半円砲塔」
●ルードウィッヒ5世は、ロンデル「半円砲塔」を築き、城の西側の防御とし、大砲なども設置していた。ところが、このあたり「砲庭」を、後のフリードリヒ5世が妃のために、「遊園化」したために、プファルツ継承戦争のとき攻め込まれることになった。
Cエリザベス門

●この門は、「エリザベスの門」といわれ、フリードリッヒ5世が、妃の英国生まれのエリザベス・スチュワートのために造ったものである。彼女は、この「砲庭」を、気に入って毎朝散歩していた。彼女の19歳の誕生日の朝、いつものように散歩していて、昨日までなかった門を見つけて、大変驚いたという。夫のフリードリッヒ5世は、彼女を喜ばせるために、一夜のうちに、この門を建てさせ、誕生日のびっくりプレゼントにしたわけである。

●二人は、政略結婚であったにもかかわらず、大変仲がよかった。この門をバックに写真を撮ると、二人にあやかって幸せになるとか。この門の奥には、彼女のために増築した「英国館」が見える。フリードリッヒ5世は、プロテスタント派の主導者として、ボヘミアに赴くが、翌年「白い山の決戦」にていフェルディナンド皇帝率いる大軍に敗れる。一冬のみのボヘミア王であったことから、「冬の王」といわれる。最後は、選帝侯の地位を失って排斥され、オランダに落ち延びたという悲劇的な運命をたどった人であった。


この城内部を案内するドイツ人のガイドさんは、
とても上手。説明はしっかり。
Dチケット売り場

昔「橋の館」といわれたところが、現在チケット売り場になっている。
ハイデルベルク城
電話:(06221)538414 / 53840
入場料: 「中庭」と「大樽」と「ドイツ薬事博物館」  
      4DM
開館時間 8-17時 (12月24日、31日は、8−13時)
       ドイツ薬事博物館 10-17時半  
城内部の見学の切符売り場は中庭に特設。
城内部見学:ルプレヒト館のところが入り口。
(月)−(金) 11時半、14時、15時45分 
これは、ドイツ語である程度の人数が集まり次第、行われる。個人では入れない。ドイツ語、英語のみのガイドについて入る。時間が合えば、ぜひトライしてみてください。

E橋 

●城門に向かって、右側の橋の欄干の上に、ゲーテの名を刻んだ一枚のプレートが埋め込まれている。ここには、ゲーテが34歳の時、ハイデルベルクに立ち寄り、この場所から右手に見える崩れた「火薬塔」を描いたということが記されている。

橋からより、チケット売り場沿いの道をまっすぐ城の庭の方へ、少し進んで、この火薬塔を見ると、いかにダイナミックに塔が2つに裂け、外側の壁が掘に落ちこんでいるかが、よくわかる。壁の厚さ6.5m、直径24mで、「プファルツ継承戦争」の時は持ちこたえたが、その4年後大量の火薬を貯蔵した結果、爆発したのだった。これを描いたゲーテの絵が有名になって、その実物を見るために、多くの人がハイデルベルクにやってくるようになったという。


F城門塔

●堀の上にかかる石橋は、昔は跳ね橋であった。城門塔の壁に鍵穴のような形の穴が残っているが、これは、跳ね橋をつっていたく際の穴の跡である。
城門塔は、度重なる戦争にも耐えて唯一残った塔で、高さ52m、奥行き13,5mあり、時計がとりつけられているところが、4階である。庭と城との間には、深い堀があり、平和なときには、鹿などを飼っていた。非常時には、水を満たすことができ、山側からの敵の攻撃に対する防御になっていた。城門塔には、2人の巨人とその内側にプファルツの象徴であるライオンがいて、プファルツの盾を持っていたはずであったが、プファルツ継承戦争のとき、フランス軍に持ち去られていまだ、どこにあるかわからないという。

●城門塔の門扉には、鉄の輪があって、奇妙な傷跡があり、「魔女の噛み跡」といわれている。あるとき、この城の王が、戯れに「この鉄の輪を噛み切る者がいれば、その者に城を与える」と言ったので、大勢が挑戦したが、誰一人歯がたたなかった。最後にやってきた魔女が、全力で噛み付き、その噛み跡がこれだというのだ。橋をわたってすぐのところに、落し格子の門があり、防御の頑丈さがわかる。

Gルプレヒト館

●中庭に出ると圧倒的に、華麗な建物が迫ってくるが、入ってすぐ左の建物がルプレヒト館である。この建物は、城の最古の住居館で、15世紀の初頭、今から600年前くらいのゴシック様式である。入り口の左側に、建造主であるルプレヒト3世を表す鷲の紋章が残されている。

●ルプレヒト館の入り口のところに、花輪をもった2人の天使の彫刻像が掲げらている。伝説によれば、建築を請け負っていた大工の棟梁の双子の子供が、館の完成直前に、工事場に来ていて、足場を踏み外して死んでしまった。双子は、悲しみに沈む父親の夢枕に現れたという。翌朝彼が目を覚ますと、昨夜のしおれたバラの花輪が新しい花輪となって、ベットの脇におかれてあった。そこで大工の棟梁であった父親は、この夢をもとに石の彫刻像を造って、コンパスを彼の職業のシンボルとしてはめこんだとのことである。ここが、城の内部の見学のガイドツアーの入り口になってりる。#チケット売り場参照

●ルプレヒト館右には、ルードウィッヒ5世が建築したゴシック様式の「図書館」があり、ロマンチックな張り出し窓がついている。

●その横には、「婦人館」がある。2階3階と、宮廷の女官や家臣たちの居館であったが、今は1階だけが残り、1534年以来この城の主宴会場である「王の間」がある。500人収容でき、今も催し物の会場として利用されている。



Hフリードリッヒ館

●正面の華麗な建物が、フリードリッヒ館である。1607年にフリードリッヒ4世により建てられて以来、代々の選帝侯の居住館であったところである。ファッサード(正面の装飾)は、黄色の砂岩でできており、歴代の力のあった選帝侯の像が飾られている。セバスチャン・ゲッツ作のこの16の像は、等身大より少しおおきめで、上の像ほど、足が短い。下から眺めて釣り合いがとれるように、バランスを考えてそうしてあるということだ。現在置かれているのはコピーで、オリジナルは風化を防ぐために館内にある


●下から2番目の一番左に立っているのが、ハイデルベルク大学を創立したルプレヒト1世。同じ段の一番右が、隣接する右手のオットー・ハインリッヒ館を建てたオットー・ハインリッヒ。最下段の一番右の目立つところに立っているんが、この館を建てたフリードリッヒ4世である。フリードリッヒ4世は、大変な大酒のみで有名で、酒のうえでの失敗も多かったらしい。「一体全体、どうやって俺は、ベッドにたどり着いたんだ。昨日は、ははーん、また一杯やって度を越したんだな、こんちくしょうめ!」と日記に自身で書いているほどだ。

●日時計のついた細長い建物とその右側の部分は、鏡の館といわれる。なぜ「鏡の間館」といわれるかというと、最上館にあった広間の壁が、ベネチア産の鏡で覆われていたことからという。この建物は、右手のオットー・ハインリヒ館と調和よく結びつける。1764年の落雷で炎上し、三日三晩燃え続けたという。

Iオットー・ハインリッヒ館


●オットー・ハインリッヒ館は、1546年オットー・ハインリッヒによって造られた。彼は、大変な巨漢であったが、大変教養の深い人で、天文学、建築学にも造詣が深く、芸術家のパトロンでもあり、このプファルツにプロテスタントを導入した人でもあった。正面ファッサードしか残っていないが、これは、ドイツ・ルネサンスの最高傑作といわれている。それぞれの階の窓と窓との間に像を置くためのニッシェ(ひっこみ)があり、それぞれの像に、オットー・ハインリッヒは、自分の信条を託している。すなわち1階には、旧約聖書の英雄、ヨシュア、サムソン、ヘラクレス、デイビッドの5人の像、2階には、5つの徳(権力、聖書、愛情、希望)を象徴する像が立っている。3階には、農業神である土星、軍神である火星、愛と美の女神の金星、技能神である水星、月の女神の像、そして最上階には、太陽神と神々の王といわれる木星を表す像が立っている。これらの彫像は、オランダ人アレクサンダー・コーリンにより作られた。建物の正面入り口は、凱旋門のようで、彼の紋章額と、オットー・ハインリッヒの頭像が、円形のメダリオンに彫られて飾られている。

●ドイツ薬事博物館:オットー・ハインリッヒ館の地階は、1957年に開設された16−19世紀の医学と薬剤に関す貴重な資料ば収められた博物館である。ここの中に入る人は多くないが、18世紀の薬局の棚などを見ていると、この国が薬学が進んでいる事情に、改めて納得する。

Jテラス

●ここからの絶景は、ハイデルベルクを訪れる人が皆、歓声をあげることだろう。眼下には、旧市街の赤い屋根の町並み、ネッカー川の流れ、対岸のハイリゲンベルクの緑の森、一気に飛び込んできて、忘れがたい風情をたたえている。旧市街を、先に見てきた人なら、聖霊教会や、マルクト広場、アルテ・ブリュッケ(古い橋)などが確認できるだろう。テラスからは、フリードリッヒ館の裏側であるが、そこにも装飾が華やかに施されていて、町から眺めた時には、城の正面に見え、とても美しい。夕方になると間接照明が当たって、建物が浮かび上がるように見えて美しい。

●このテラスには、大きな足跡というかくぼみが残されている。伝えによると、選帝侯の妃が、若い騎士を、ベットに引き入れて浮気の真っ最中。ところが、狩りに出て行ったはずの選帝侯が突如帰ってきて、びっくりした浮気相手の騎士は、取るものもとりあえず靴だけはいて、妃の部屋の窓から飛び降りたときの足跡が、これとされている。
この足跡にぴったり合う人は、浮気人かも?お試しあれ。


Kワイン大樽

●このワイン樽は、1751年カール・テオドールが造ったもので、直径7m、長さ8,5mあり、222,000リットルの容量で、木製の樽としては世界一のものである。樽の上の方に、CとTのカール・テオドールのイニシャルである紋章が飾られており、130本の樫の木からできている。

●左右の階段を上がって棚の上の踊り場に上がることもできる。一回りしてみると、樽の大きさが実感できるだろう。当時、税金の代わりとしてワインを納めることができ、この樽におさめられたワインは、いろいろな畑のものが混ざり合い、アルコール度が5%くらいで質的には良くなかったといわれる。

●城の最盛期には、常時500−600人の人がいて、一日約2000リットルくらいワインが消費されたという。ワインは、ポンプでくみ上げることができ、それは階上の宴会場である「王の間」に運ぶことができ、合理的に造られていた。
●樽の反対側、壁側にコンパスとカンナが飾られているが、樽を製作したとき使われたものである。その下に、小さめの人の像があるが、これは、「ペルケオ」といって、カール・フィリップやカール・テオドールに使えたイタリア出身の道化師である。一日18本ものワインを飲む大酒のみで、人をからかうことが好きだった。

●ペルケオの像の横に時計の形をした箱があり、リングを引くと、それは実は、きつねのしっぽが出てくるびっくり箱なのである。ペルケオは、貴婦人を驚かせて、失神した貴婦人を介抱するのを、楽しみにしていたとか。彼は、あるとき人にワインの代わりに、水を勧められ、飲んでみてあまりのまずさに驚いて、それが原因で亡くなったという。


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