G 聖霊教会

●聖霊教会は、プファルツのなかで、82mの最も高い塔を持つゴシック様式の建築で、選帝侯の墓が納められ、大学の祭宴の場で、ハイデルベルクのなかで、最も重要な教会である。
選帝侯ルプレヒト3世が、1400年前後に起工したが、内部、塔と順に建築され、今のような形になったのは1544年のことである。

●この教会も、ハイデルベルクを襲った2つの戦争によって大きな被害を受けた。
この教会に所蔵されていた「パラティーナ文書」といわれた蔵書は紛失を恐れて、すべて鎖につながれていたという。そのように、大切に保管されていたが、30年戦争の際、ティリー将軍は、この蔵書を、戦利品としてローマに持ち去った。
1693年のプファルツ継承戦争時、フランス兵は、55もの選帝侯の墓を破壊し、難を逃れたのは、唯一ルプレヒト3世と妃のエリザベートの墓石だけだった。

●この教会は、政権を握る選帝侯の見解によってカトリック派、プロテスタント派と揺れ動き、長く紛争が続いた。
ヨハン・ウィルヘルムは、ハイデルベルクを再カトリック化するよう試みたが、プロテスタント派の反対にあい、1705年聖壇と本陣に隔壁を設け、両派分けて教会を使うことにした。1719年カール・フィリップは、すべてカトリック派が使用できるように隔壁をいったん取り払ったが、両派の対立は続き、全国のカトリック派、プロテスタント派の関心事となり、またもや宗教戦争になる危機に陥った。しかし結局、カール・フィリップは、ドイツ皇帝達の干渉を受け、再び隔壁は設けられ、これ以降また、教会の二分割が続く。この紛争で腹のおさまらないカール・フィリップは、「ハイデルベルクなぞ、荒野になるがいい。」と言い捨てて、マンハイムに移ってしまい、そこに宮殿を建てさせた。



●1886年、大学の創立500年祭の時、一時的に隔壁は、除去された。


●1936年、プロテスタント派がカトリック派から、権利その他を買い取ることで、ようやく長く続いた争いは、決着した。その際の交渉に活躍したのが、ヘルマン・マース牧師である。

彼は、ユダヤ人住民を救った人で、町の人からも信頼が厚い人だった。1925年、教会を脱会していた王制廃止後の帝国初代大統領のフリードリッヒ・エーベルトのために、葬式を行った。


●聖霊教会内部に入ったすぐ左手の窓は、燃えるような赤のステンドグラスで、印象的な窓がある。これは、大学の学部を象徴するようなデザインで窓を飾ろうというアイデアがあり、試みにひとつ作られた。「物理学の窓」といい、聖書の引用と、広島に原爆投下された悲劇の日付が刻まれている。赤いのは、愛でなく暴力を表すという。




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