1620年代のハイデルベルク城を、ネッカー川から望む。
フランス軍により破壊される前の最盛期の姿。
530,000年前
ネッカー川の波に洗われて、砂地に埋まっていた推定53万年前の原人(Homo Heidelbergensis)の骨が、ハイデルベルク近郊のマウアー(Mauer)で発見される。
ヨーロッパ最古のもので、オリジナルは、ハイデルベルク大学古生物学研究所にあるが、コピーを,プファルツ選帝侯博物館で見ることができる。
1196年
ハイデルベルクのことが、初めてショーナウ修道院の文書に登場。
1386年
1356年の黄金勅書により、ドイツ国王は、7人の選帝侯により、選出されることになる。
その選帝侯の中でも筆頭の地位にあったプファルツ候ルプレヒト1世は、ハイデルベルク大学を創設する。
以下、ハイデルベルクを治めるのは、代々プファルツ選定候であり、名のみを記す。
1518年
マルティン・ルターが、ウォルムスで彼の95か条の論題を説明しにいく途中、ハイデルベルクに立ち寄る。ルターの説に、当時のルードウィッヒ5世も感銘を受けたという。彼は、ハイデルベルク城の建設に力をいれ、中世の要塞から、快適な住居館への転換をはかる。
1620年
フリードリッヒ5世は、イギリス国王の娘,エリザベス・スチュワートと妃に迎え、プロテスタント側に立ち、ボヘミアに赴くが、翌年「白い山の決戦」にてフェルディナンド皇帝率いる大軍に破れ、一冬のみボヘミア王であったことより、「冬の王」といわれる。
30年戦争勃発。
1622年
カトリック側皇帝軍の名将ティリーにより、ハイデルベルクは、包囲、占領される。ティリーは、戦利品として、聖霊教会にあった有名なパラティーナ蔵書を、ローマに運び法王に贈る。
1671年
フリードリッヒ5世の息子、カール・ルードヴィッヒは、最下位であるにせよ、選帝侯となり、ハイデルベルク城に戻り、30年戦争で荒廃した町を復興させるために、フランスのルイ14世の弟、オルレアン公のもとに、娘をリゼロッテを嫁がせる。
1689年
リゼロッテの弟の死後、ルイ14世は、プファルツ領を、リゼロッテの遺産として要求。ハイデルベルク側が、これをはねつけたことから、プファルツ継承戦争が勃発する。
1693年
フランス軍は、町、城ともに、ハイデルベルクを徹底的に破壊する。
1720年
カール・フィリップは、宗教上の紛争をきっかけに、宮殿をマンハイムに移す。以後、カール・テオドールが、バイエルンを想像クして、ミュンヘンに宮殿をかまえるまで、プファルツ選帝侯の宮殿は、マンハイムにおかれる。
1764年
歴代の選帝侯のなかでもユニークなカール・テオドールは、ハイデルベルクの城を改築する計画をたてたが、城に雷が落ち、炎上したため、工事を断念する。以来、ハイデルベルク城が、大々的に再建されることはない。
1803年
帝国議会の決議により、プファルツの大部分は、バーデン大公国に編入される。バーデン公カール・フリードリッヒは、大学を新しく再建する。
1849年
プファルツ・バーデン紛争の際、ハイデルベルクは革命軍の司令部となる。1850年まで、ハイデルベルクは、プロイセン軍に占領される。
1945年
ハイデルベルクは、第2次世界大戦の爆破を免れる。医学者、カール・ハインリッヒ・バウアー、哲学者カールヤスパース等の努力で、大学は、再興される。




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