アート・ガーファンクル ドイツ公演追っかけ記

カッチイが、長年のアートガーファンクルのファンであることは、このホームページでも言いまくってきたけれど、2002年春、彼のドイツ公演の追っかけを敢行したのだ。彼は、御年61歳、久々の新作「Everything waits to be noticed」は、マイア・シャープ、バディ・マンドロックという若手を迎えてのトリオで歌っているのだが、このドイツ公演には、彼らをともなってくるという。これを見ないではいられないではありませんか!というわけで、追っかけを断行しました。

   以下は、ミーハーな追っかけ記なのだけれど、かなりカッチイのプライベートな面も出たものになった。自分のことを書くのは、初めてといっていいかもしれない。帰国後、思い出しては、書き足し、私小説まがいの拙さながら、何がしか書きたいことを書いたという気になっていたのだが、アップロードしてからは、反省が頭をもたげてきた。本人の思い入れたっぷりすぎる。旅行記としては、欠陥があると思う。 こういう文章は、もうしばらく書かないと思う。恥ずかしいから(笑)
「カッチイの写真館」の「思い出のハイルブロン」の内容も入れた。ゆえにそちらは、削除した。原稿用紙にして30枚近く。大変長文。最後まで読んでくださった方に、感謝します。2003年 夏:作成 


  
   去年2002年の師走も押し迫ったころ、私は大阪キタの韓国料理屋で忘年会の席にいた。「サイモン&ガーファンクル、通称S&G」のファンサイトで知り合って意気投合した仲間が、メンバーだった。学生さんから、いい年の中年連中まで、私達はインターネット上で、意見交換するだけでなく、もうかれこれ5年近く「オフ会」と称して不定期ながら実際に集っているのだった。

ポピュラー音楽界、最高の黄金のデュオ、「サイモン&ガーファンクル」と高らかに言ってみても、ビートルズと同時期に活躍した彼らのことを「それって誰?」と反応する世代が増えた昨今が悲しい。私だって、1960年生まれだから、リアルタイムで、彼らの全盛期を知るわけではない。でも、十五歳のとき、彼らの歌に触れて以来、ずっと二人にあこがれ、追い続けてきた。英語の歌詞を見て、どうして彼らの出身地のニューヨークに生まれなくて、日本のごみごみした大阪にいるのだろうと悔しい思いをしていた「じゃりんこチエ」みたいな少女が私だった。

多くの人が、S&Gというと、楽曲を作詞作曲、そしてギターも奏でるポール・サイモンに興味を抱き高く評価する。私のまわりにも今も気分は「ポール・サイモン」で歌いまくってご満悦なギターおじさんがたくさんいる。

しかし、私は、ポールの横で控えめに立つ歌手オンリーの長身のアート・ガーファンクルにより肩入れしてしまうのだ。ポールのきらめくような才能を誰よりも理解し支え、そして孤独に傷ついてきたのが15歳のときからの親友のアートだと思う。彼の透明で優しいカウントテナーの影に、常にコンプレックスと対峙しなければならなかった男の内面を見るのだ。少しはかなげで知的なルックスにも女心をくすぐられる。いや、わしづかみにされてきたというのが本当だ。ファン仲間のなかで、私は有名な「アート派」なのだった。


   S&G解散後、アートは、ゆっくりと自分なりのペースでソロ活動を積み重ねてきたがおととしには来日し、長期のコンサートツアーも敢行し、新作CDも発売になったばかりで、現在、まれにみる活発な音楽活動を展開している。

私たちの話題は、彼の公式サイトが、新作のプロモーションを兼ねてヨーロッパツアーを2月からすると発表したことに移っていった。ドイツ公演も含まれているという。「カッチイさん(私のニックネーム、いわゆるハンドル名)これは行かなくちゃ」と仲間が、ニヤリとしてこちらを見た。

ドイツは、私が、留学で10年を過ごし、第2の故郷と思う国である。還暦を過ぎたアートの生のステージを見ることが出来るチャンスは、もうそんなにないかもしれない。仕事のスケジュールを、すばやく思い浮かべる。私は観光系専門学校の講師をしているが、アートのドイツ公演は、ばっちり春休み中だ。行っていけないことはない、卒業式までに帰れば何とかなるか。海を越えての追っかけなんて、これぞ、あっぱれなファン魂というものではないか。お調子モノのボルテージは、一気に上がるが、社会人が、そんな酔狂な夢物語を実現しようなんて、いい気になりすぎるという冷静さもさすがに働いた。チゲなべの唐辛子に刺激されての思いつきだと自分で思おうとした。けしかけた仲間たちだって、誰も本気になんてしていなかったに違いないのだから.

年が明けて、仕事が、津波のように押し寄せてきた。それなのに風邪をこじらせ、朝の通勤列車を待って立っているのも辛かった。目前の線路に、敷き詰められた茶色い小石が自分の脳細胞に押し込められるような圧迫感を感じた。「白線の内側までお下がりください」親切すぎるアナウンスの甲高い声が、石が詰まった重い頭に響いた。私は矢も立てもたまらず、ドイツへ行こうと思いつめた。パソコンにかじりついて情報収集し、二月のドイツ公演二日分のチケットをオンラインで押さえた。全くインターネット時代の恩恵を浴することができることに感謝する。

2月24日、私は、本当にボン行きの列車に乗っていた。ドイツの新幹線ICEは実に快適だ。時速二〇〇キロ以上で走るので、駅のフォームで見ていると、目にも止まらぬ速さで駆け抜け、その迫力に圧倒されるが、乗っていると、揺れが少なく静かでスムーズだ。モダンなデザインの車内は、落ち着きがあって、ライトブルーの座席は、背もたれの部分も高く、平均的日本人より小柄な私は、すっぽり隠れてしまうほどだ。車窓からは、ドイツの父なる川「ライン川」が見え、その両岸の谷の斜面には見事な緑のワイン畑が広がる。ある一定区間、列車は、ライン川下りの遊覧船と平行に走るので、古城も見える。有名なローレライの岩も確認できた。

私は、旅に出た解放感に浸ってドイツに到着してからの時間を、慎重に思いかえしていた。ドイツに来ると、いつもデジャブ(既視感)というのだろうか?不思議な感覚に襲われる。ドイツに10年いて、日本に帰ってきてからの日々が、それと同じくらいになってきた。ドイツ関連の仕事もしているが、すっかり普段は、日本の生活に埋没している。突然ドイツの日常の風景に放り込まれて、軽い戸惑いを覚えるけれど、同時にとても慕わしく思う。意識下にあるものが呼びおこされる。

巨大なフランクフルト空港に降り立って、わかりやすい表示に従って、空港から直結している列車に乗って中央駅に出た。駅でドイツ名物、立ち食いのソーセージを見つけてかぶりついた。じゅわっとしみる肉汁と歯ごたえに、「そうよ、これなのよ」と独り言が思わず出る。付け合せの酢キャベツは、ドイツにいるとき、その酢の強さが好きじゃなかったのにどうしてこんなに美味しいのだろう。ビールを飲みながら、駅を行きかう人々を見ると、みんなが黒い髪黒い瞳の日本と違って自分も含め異邦人だらけであることを改めて実感する。日本にいる時より少し緊張感を持って、意志的な目をして歩こう。駅の雑踏にまぎれ、人々のドイツ語がワサワサと聞こえてくると、ドイツ語の感覚が少しずつ戻ってくる。なつかしさとほっとした気持ちが、ゴチャゴチャになる。ドイツに溶け込んで行く過程には過去の自分と現在の自分がすりかわる瞬間があり、独特の浮遊感がある。そろりそろりと時間旅行をしているかのようだ。

ボンには、私の大親友のザビーネがいる。彼女には、明日一緒にアートのコンサートに付き合ってもらうのだ。事前に、アートの新作のCDをクリスマスプレゼントに贈って、アートのファンなってもらう啓蒙活動(?)にも怠りがない。

流れて行く車窓の緑の景色を見ながらザビーネに会うまでの待ち遠しい気分を味わう。「最初お互いどんな顔をするかな?」って考える時間が好き。かつて首都だったボンだが、駅は思いのほか小さい。ザビーネを見つけるのはたやすかった。汽車を降りて、ひしと抱き合ってのドイツ流の挨拶を交わす。大柄な彼女とは、かなりの身長差になるので、毎回この感激の再会の際には、かがんでもらわなくてはいけない。

英語と仏語の翻訳家のザビーネは、うちで仕事をしている。ザビーネはライン川に近い静かな住宅地にあるアルテバウ、戦前の古い建物の2階を借りて住んでいる。天井がうんと高く一部屋が広い。「もう工事現場じゃないわよ。」とザビーネが笑う。そうだ、前に来た時は床から張りなおしていたからなあ。ドイツ人は、衣食住のうち「住」の部分に一番エネルギーを注ぐが、彼女も例外でない。本棚も手造りしてしまうのだからすごい。そこには読書家の彼女だけに、ハードカバーの本がずらりと並んでいる。

私たちは、ハイデルベルク大学で、お互い学生として知り合った。彼女は、私より7歳ほど年下なのだが、ドイツおよびドイツ語の私の先生のような存在だった。私の幼稚なドイツ語のレポートが、彼女に見てもらうと、すこぶる格調高いドイツ語になるのだった。

雑然とした部屋に、趣味以上の気持ちをこめて作っているという陶芸の道具類が、前より増えていた。それに居間に、子供のぬいぐるみや抱き人形がいくつも転がっている。ザビーネは独身だが、友達には子連れの人も多いらしい。「うちに遊びにきたとき、当然子供たちも一緒だから、あの子たちが楽しく遊べるようにね」忘れ物じゃなくて、彼女がわざわざ買い求めて置いているのだ。私もシングルだが、そんなふうに誰かの「おばちゃん」をする部分は、自分の日常の生活のなかにないからとても感心した。

2月末のドイツは、意外に寒くなかったがザビーネは、体が温まるチキンスープとチーズフォンデューを作ってくれた。彼女のうちは、心から寛げる。夢中でお互いの近況を報告しあった。もっとおしゃべりしたかったけれど、おなかもふくれ長旅の疲れが一気に出て眠くなってしまった。ベッドの横になったらコテンとすぐに寝入った。

翌日25日は、夜8時に始まるコンサートまで終日時間があった。ゆっくり起きてハムやチーズ、手作りのジャムを並べるドイツ流の朝食を取ったあと、午前中は、私の希望で、美術大学に行きたいと言い出した姪のお土産を買いに画材屋さんに連れて行ってもらった。ドイツには、優れた画材や筆記具メーカーがいくつもあるのだ。ザビーネが車で連れて行ってくれたのは、ドイツ内に多くの支店がある画材全般を扱う大きな問屋さんで、圧巻の品揃えだった。本格的に絵を描く人は一本一本自分仕様に選ぶので、絵具はバラ売りしている。木箱に入ったセットものは、高級品だが、日本の半額くらいの値段だった。お目当てのF社の水彩色鉛筆36色と、絵を描くザビーネの勧めでロシア製のソフトパステルが48色木箱入り22ユーロ(3000円)と格安だったのでホクホク購入した。

「けっこう初老の男性が一人で来ていたわね。ねえねえ、ベレー帽かぶって赤いマフラーをしていた人、ちょっとステキだったと思わない?」私は店を出て早々、ザビーネに話しかけ笑われた。仕事を離れて、自分の世界を持っている男性は魅力的だ。しかしそれは年間6週間、休暇が取れるドイツだからこそ趣味の世界に没頭できるのかもしれない。



    それから車で、ケルンから北西に35キロのベルグハイムに向かった。この地域一帯は、石炭の露天掘りで有名な地域で、その中心に400年以上の歴史のあるパッフェンドルフ城がある。その城内にはドイツ最大のエネルギー会社RWEブラウン社が催す露天掘りの展示コーナーがある。私達のお目当てはその展示や、お城そのものではなくて、庭を散歩することだった。

散歩は、ドイツ人の生活の中に根付いている。

冬の午後、快晴でお日様がピカピカ射すなんてドイツでは珍しい。人影もまばらで、澄んだ空気のなかで、カサコソと落葉を踏みしめ歩く私達の靴音だけが響いた。古いレンガのお城を背に池には鴨がすべるように泳ぎ、彼らが水面につける漣が優雅な曲線を描いていた。葉を落とした大きな木の複雑な枝ぶりが、青空に映えていた。私は、最近のアートが「僕は美しい木になりたい」とインタビューで言っていたことを思い出した。「枝から小枝が生えて、葉が開くように持って生まれた資質を開花させたい」

私が今見るような大地にどっしり立つ木に彼はなりたいというのだろうか。夏にはきっと一杯葉っぱを茂らせる木、その緑の木の下で彼の美しい声を聞いて、私達は涼むことができる。公園のなかに、小さな野外劇場があった。あと何時間かで舞台に立つアートの歌う姿に、思いをはせドキドキした。

ザビーネのうちに戻って、彼女は、私にソフトパステルの扱いを教えてくれた。彼女が早めの夕食を作ってくれる間、私は「お絵かき」をして遊んだ。絵なんて子供の頃から苦手だったのに。パソコンで作った年賀状でサクラの画像を使ったことを思い出して、サクラの木を描いた。静かな部屋で無心にサクラを描いていた時間を今もよく覚えている。「絵なんて描けない」「歌なんて歌えない」といくつのことを決めつけてきたことか。昨日のスープのチキンの肉をほぐしてクリームを加えたフリカッセの夕飯を運んできたザビーネは、私のサクラの絵を見て、大げさに誉めてくれた。

コンサート会場の「ブリュッケンフォーラム」は、ライン川を渡ったところにある。私達は、徒歩で、三十分以上かけて川べりを歩いていった。コンサート会場まで、近くなるほどに日が暮れ、胸が高鳴った。ところが「ブリュッケンフォーラム」は、規模といい設備といい町の公民館といったところで、内心がっかりしたが、300席くらいのホールは、さすがに満席だったので安心した。

8時きっかりに、会場の照明が落ち「ア・ハート・イン・ニューヨーク」のなじみのあるイントロが流れアートが舞台に登場した。聴衆は焦れこんだ拍手を盛大に送った。彼独特の透明感のある美しい声が会場いっぱいに満ちた瞬間、私は陶然となった。これぞ彼の生の声。アートが歌っているのだ。動いている。目の前にいる。気持ちが舞い上がり、頬が紅潮し喉がカラカラになった。正面ど真ん中という抜群の席だったので、彼の表情まで見てとれる。歌い終わって、彼は独特の優しい声で、ドイツに来られた喜びを短く語り、新作の「心の散歩道」でトリオを組んだ2人の若手ボーカリスト、マイア・シャープとバディ・マンドロックを紹介してさっと舞台のそでに引っ込んでしまった。前座として彼らが、各ソロを3曲ずつ歌い、アートが再び登場するのは、一部終了後の休憩を待ってからのことになったのだった。

2部、アートは、サイモン&ガーファンクル時代の歌を何曲も披露した。落ち着いて歌う彼の姿を見て、私も少し冷静になることができた。私は、アートがソロになってからもコンサートで、過去のS&G時代の歌を歌いすぎることに批判的だった。だが今回のアートの歌うS&Gの曲に改めて感動した。S&Gの楽曲の本来もつ力強さに改めて目覚めた思いだった。前座になったマイヤやバディの歌は、申し訳ないけれど、どれも似たりよったりの印象を与えてしまう。アートの声も正直、若い時のような迫力はないのだが、ポール・サイモンのハーモニーを全く必要と感じさせず、アートの歌う「S&G」の曲が、高い完成度で聴衆に迫ってくる。

   本当のところ「S&G」の曲なんて、アートは、いいかげん歌い飽きているのかもしれない。彼の十八番「明日に架ける橋」を歌わなくちゃいけないと思った瞬間、気持ちが萎える瞬間だってあるに違いない。それは「仕事」というものが、どうしようもなく与える「慣れ」という倦怠感というものだ。楽曲にめぐりあえた喜びを、一生持ち続けるということが本来不可能だからこそ、いっそう心をこめて歌う。それが自分の「使命」だと思っているのではないか。彼は自分の声を「神から与えられたギフト」であるとよくいう。ストレスとスピードが渦巻く社会に生きる私達に、いっとき緊張を和らげ、慰めを与える声を授けられているとは、なんと素晴らしいことだろう。歌という表現で、聴衆をぐいぐいと引きつけていく彼の真剣な表情には、自分の「使命」を確信している強さがあり、その深さに私は打たれたのだ。アートが、命を吹き込んで歌う歌が、私の体のなかをすりぬける喜びに、全身が震える思いだった。

コンサートの当時、イラク攻撃が現実味を帯びてきたころだった。アートは、「アメリカの歌」を歌った時、歌詞にあるとおり「アメリカがどこに行こうとしているのか、それはグッド・クエスチョンだ」と言い、政治的なことはあまり言いたくないと言いつつ「こうして皆さんを見ると、アメリカの聴衆と見た目はすごく似ているように見えるけれど、ドイツ人のあなたたちのほうが、私達より歴史を大事にして平和を望む人たちだね」とコメントしたものだから、ドイツ人たちは拍手喝采。

   
アートは、「S&G」時代の曲以外に、新作を。若いマイアとバディとのトリオで歌いリリカルで繊細なハーモニーを聞かせ、また円熟味を増したソロもたっぷり披露した。ステージは、この3つをバランスよく構成していた内容だった。少人数のバンドの結束力も固く、アートの声を最大限に生かして洗練されたものだった。

この日のアートのステージでの出来は、本当に良かった。聴衆は、最後全員スタンディングオベーションで彼を称えた。ドイツ公演の初日がこういう幕開けで、私も本当に嬉しかった。

コンサートのあと、とんでもないことが起きた。まさかのまさかで「楽屋待ち」をしていたのだが、アートに会えるという幸運に見舞われたのだった。彼は、時々そういうファンサービスをしてくれることがあるのだ。ドイツ方式というのだろうか。私たちファンが彼をもみくちゃにしないように、警備員が、逆にニー三人ずつ中へ入れてくれたのたので私達は、短いながら順番に楽屋口に立っているアートと直接話ができたのだ。私の目に入ったアートは、私の前の人と、とても気さくに話していた。確かに、近くで見ると、それなりの年輪を感じさせることは否めない。若い頃は、繊細でほっそりしていたのに愛妻と一人息子に恵まれた幸せ太りも見てとれた。そしてのどが太いのが、やっぱり目立った。

   私には雲の上の人が、羽をつけて地上に舞い降りたような感じがして、緊張してカチカチだったのだが、アートがにっこり笑って「君の番だね」と声をかけてくれた。自然体のアートに、こちらは、心臓バクバク、もう酸欠状態。「コンサートすごく良かったです。ずっとずっと、20年以上、あなたのファンです。」と言うのがやっと。ザビーネが助け舟を出してくれる。「彼女は、あなたに会いにわざわざ日本からきたのですよ」そうするとアートは、さすがに驚いた表情を見せ、あろうことか私の肩を抱いてくれたのだった。一瞬何が起きたのかわからなかった。夢のようだった。

   ライン川が送る冷たい風を頬に受けて、夜道をまた歩いて帰った。ずっとケラケラ笑っている私に、ザビーネは、「あなたのようなファンがいて、アート・ガーファンクルは本当に幸せな人ね。」と言ってくれた。私の興奮は、なかなかおさまらなかった。その日眠りにつくまでアートの歌ったメロディが、メリーゴーランドのように、ぐるぐる回っていた。



   翌日二月二十六日は、ハイルブロンに移動しなくちゃいけなかった。「追っかけ」だから、次の公演も制覇するという私に、ザビーネはあきれ顔。朝食のパンをすばやくサンドイッチにして持たせてくれる彼女の心使いに「この人はどうしてこんなによくしてくれるのか」と帰り際いつも思う。実際は、しょっちゅう会えるわけではない。だからこそ上手く付き合えるところもあるのかもしれないけれど、来年会っても、変わらない親しさで話せる自信がある。駅まで見送ってくれた彼女と、来週にまた会うかのような気軽さで別れた。

  ハイルブロンは、古城街道ぞいにあり、ワインの集散地として有名な人口十二万人の中都市だ。駅に着いて見上げた空は、この日も冬なのに晴れ渡っていた。昨日コンサートの後、アートに直接会えたことに、すっかり気を良くして、今日も会えたらという期待に胸がふくらんだ。渡せたらいいなと思い、花屋に入って、彩りの美しい花束を作ってもらった。ランチを食べて特産の赤ワインを飲んでネッカー川沿いをちょっと散歩したら、少し疲れたので早めにホテルに行くことにした。ホテルは、インターネットでハイルブロンの観光局のページを開き、コンサート会場に一番近いところを取った。リッチな女主人が趣味でやっているような「ヴィラ」の名前どおり、隠れた別荘のようなホテルで、ぐっすり休養しコンサートに備えた。

ネッカー川の流れるハイルブロンの町を散歩した。川が流れる町って
好きだ。何気ない風景なんだけど、静かで落ち着く。
お天気よくて気持ちよかった。
船は、小さいながら、シーズンには、船上レストランになるようだった


ネッカー川には、白鳥がいた。
なんて優雅なんだろう

 ぼんやり白鳥に見とれていた。
 のんびりした昼下がり
この町で過ごした時間が忘れられない。

  

  ところが、である。「クンストハレ」で開かれたアートのコンサートは、一曲目を聞いたときから「あれ?」と思ってしまった。声が本調子でないのである。昨日とは、プログラムも変えている。テンポの遅い歌では、何とかテクニックでカバーできるものの、歌い進めるほどにリズムのある曲は、つらい状況になってきた。途中、アートがメロディをとって3人のハーモニーを聞かせどころとなっている歌は、舞台でバディに耳打ちして、アートは急に引っ込んでしまった。1曲休んで力を温存しようとしたのだが、再び舞台に戻ったアートの声は、パワーを取り戻すことはなかった。ヒット曲「ミセスロビンソン」ではシャウトした声が、裏返りガラガラ声になってしまった。私は、痛々しくて見ていられない。いったい、どうしちゃったのだろう?思い当たるのは、やっぱり過酷なコンサートスケジュールだ。いつもハイライトになる「明日に架ける橋」のあとついにアートの口から「ソーリー」という言葉も出てしまった。

  こんなボロボロのアートは、きっとファンの前に姿を見せないだろうな、私が、アートの立場でもそうだろうと思ったとおり「楽屋待ち」をしていたが、他のバンドメンバーは、出てきたのにアートは出てこなかった。巨大なツアーバスに先に乗り込んでしまっていたらしい。オーストリアナンバーのツアーバスで移動しているのだと推定すると、昨夜私たちファンから解放されたのが、午後十二時近く、そのあとハイルブロンまで300キロ、ボンに泊らずに走ってきたようである。これでは、六十一歳のアートには、体力的にこたえただろう。せっかく用意した花束は渡せずじまいになったので、それはスタッフの人に託した。私はファンだから、これで彼をキライになったりはしないが、今夜の彼の歌に正直がっかりした人たちは、少なからずいたことだろう。一番打ちひしがれているのはアート自身だという気がした。ちょっと複雑な気分で寝付けなかった。

一夜明けて、朝食を食べながら「アートも生身の人間だったのね」と思う気持ちが出てきた。とかく自分にとってのアイドルは、完璧なスーパーマンのように祭り上げてしまうところがあるが、実際の演奏が上手くいかない日もあるのは、あたりまえのことなのだ。声が衰えるのは、生理的なものだ。彼の年齢と体力を考えると、過酷なコンサートツアーを続けるのは、断念する日がくるかもしれない。

会場の「Harmonie」は、Kunstverein Heilbornn、
つまりハイルブロンの総合芸術施設ならしいのだが、
コンサートの翌日、会場にもう一度行って記念に写真をとった。 
前日のボン公演に比べるとは、ハイルブロンでは絶不調だった、アーティ。
楽屋デマチを狙ったのだが、彼には巻かれてしまった。
ファンに会いたくない気持もわかった。
グラミー賞の授賞式直後にドイツにやってきて超過密スケジュール。
やっぱ老体には、こたえたんだろう。
とかくマイ・アイドルは、カンペキだと神格化してしまうが、
彼も人間だったのだとしみじみ。


私のアートの「追っかけ」は終わった。残りの5日間は、学生生活を送ったハイデルベルクで過ごすことにした。ビスマルク広場から始まる賑やかなメインストリートでなく、それと平行に山側に走る細い道「プレック」を昔のように歩いた。ハイデルベルク城を見上げなくてもネッカー川にかかる「古い橋」に行き着かなくても、この街の石畳の道を歩いているだけで、ここへ戻ってきたことの喜びを感じる。私は、どれだけこの町を愛していることだろう。

   大学広場の裏手には、イグナチウス・ロヨラが創設した「旧・イエズス教会」がある。ミサの時以外なら、誰でも中に入れる。白い漆喰の壁の教会内部の正面には、バロック様式の優美な祭壇があり、頬のこけたイエス像が祭ってある。この西洋的な顔立ちの像を、つらい気持ちで見上げた日のことを思い出した。私には、アートの声が全く心に響かない日があったのだ。ドイツ生活が暗礁に乗りあげた日々、大学の勉強も、アルバイトのガイド業も、オトコもみんな中途半端、人生の袋小路に迷い込んだ時期、アートの声は、ただうつろに通り過ぎるばかりだった

ハイデルベルクからネッカー川をバスで20分ほど行った先に、ネッカーゲミュンドという町があり、学生時代ザビーネが住んでいたのでよく遊びに行った。ドイツ人も憧れの一戸建てが立ち並ぶ静かで豊かな住宅地だ。あるとき一軒の家を通り過ぎた時、家族がそろってテーブルにつきキャンドルをたて食前の祈りを捧げている姿が、たまたま目に入った。目を閉じ一心に祈るそのドイツ人のその姿を見た瞬間、なぜか突然絶望感がこみあげてきた。私の育った環境のなかで、キャンドルは、子供のころバースデイケーキでお祝いをするときにしか灯すものでない。挫折感にとらわれているときは何げないことが、疎外感と落ち込みにつながってしまう。外国人として生活をするというのは思うにまかせない小さなストレスをオリのように溜めていくことだ。外国人のハンディをはねのけようとするために必要以上に攻撃的になって自己主張するのに疲れて、やがて海に沈む貝のように私は、私自身を閉ざしてしまった。

   ドイツを去った時、ザビーネとドイツでアートのコンサートに行く日が来るなんて、想像もできなかった。時を経て、今回ドイツに来て、私にはアートの声が豊かに響いた。そのことが何より嬉しかった。ハイルブロンの無残な彼の公演も、人間の弱さや不完全さを思いおこさせる出来事だった。それでいて実際にかいまみたアートは人間味あふれて素敵な人だった。何年もかけて徒歩でアメリカ横断をしたアートは、実は筋金入りの旅人としても知られている。今は折にふれ、ロンドンを出発してイスタンブールに至るユーロウォークの旅をしているという。そんなアートがこの石畳の細い道に、突然現れるのでないかという夢想が沸く。そんなことを想像する瞬間に幸せを感じた。

ハイデルベルクの最後の滞在の日は、カーニバルに遭遇した。カーニバルは、復活祭の四十日前、断食の期間に入る前に行われる無礼講のお祭りだ。もともとは、つらい断食の期間に突入する前に、食いだめ・飲みだめ・騒ぎだめをしようという、きわめて人間的な欲求から生まれたものらしい。ドンチャン騒ぎの風習はしっかり今に受け継がれている。

カーニバルでは、仮装したパレードが見ものである。市民団体から町内倶楽部や企業が出す山車は、個性的。お面をつけた魔女軍団、なぜかインディアン、中世の騎士やお姫さまたち、BSE(狂牛病)の世相を示してか牛の着ぐるみ集団などさまざま。山車からは、キャンディなどが投げられる。子供たちは、このお菓子をもらおうと袋持参でやってくる。ドイツのブラスバンドはは、日本のお祭りのお囃子のようなものだ。ズンジャカズンジャカのリズムは、ドイツ人の祭り魂をかきたてるのものだと心から納得した。

  このパレードの参加者、観客は互いに「ヘラウ」と声をかけあう。みんな陽気で
楽しげだ。私は、パレードの人々にカメラを向けたのだが、その瞬間、私が、旅行者であり、すでにここの住人ではないことのたまらない寂しさを覚えた。

アートのコンサートを追いかけたドイツの旅は、私に回想を促し、新たなる思い出を与えてくれた。ボン公演のアートの澄んだ美しい声や、ザビーネとの語らいや、ドイツの深い森の色やネッカー川の流れは、脳裏の深いところに焼き付いて、忘れることはないだろう。その思い出は、再び私が帰っていく日本の日常の喧騒のなかで、私を支えてくれるだろう。それは、かけがえがない。

パレードが過ぎ去って、音楽も遠のいた。みんな家路にむかう。私も歩きだした。石畳の道に長い影がつく。背中に、陽だまりの暖かさを感じた。春の訪れは、すぐそこまで来ていることを実感した。

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