愛しのハイデルベルク No2 旧市街

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愛しのハイデルベルク No2 旧市街

ハイデルベルクのみどころは、上記の地図のオレンジで囲ったハイデルベルク旧市街と、ハイデルベルク城に大きく分かれます。
ここでは、旧市街の観光スポットを案内します。

ビスマルク広場

ハイデルベルクに、汽車で到着したら、市電かバスに乗って、このビスマルク広場まで、移動することを、お勧めします。
ビスマルク広場は、街の市電、バスの起点ともなるところです。タクシー乗り場もあります。
ビスマルク広場には、「カウフホフ」(Kaufhof) というデパートがあり、たいていのものが、揃います。
ただ、日本の高級百貨店を想像すると、ちょっと見劣りがするかも。
「カウフホフ」の裏手は、郵便局で、利用するのに便利です。

画像の右奥のストリートが、ハイデルベルクの旧市街のメインストリート歩行者天国のハウプトシュトラーセの始まりの場所です。
ハウプトシュトラーセに沿って、ハイデルベルクの主だったショップが並ぶ他、旧市街の観光スポットが、点在しています。
観光客は、滞在中、何度かこの約1kmにわたるこのメインストリートを行き来することになるでしょう。

ビスマルク広場と名づけられているのは、木陰に、プロイセンの鉄血宰相といわれたビスマルクの銅像があるからです。
探してみては、いかが?
けっこうレアな写真になりますよ。

市公会堂

Stadhalle(シュタット・ハレ)

旧市街の中ほどのネッカー川沿いに、1901〜3年に建てられた市の公会堂(シュタット・ハレ)があります。
当時の流行であった「アール・ヌーボー」様式の建築の影響があり、玄関の装飾など優雅で凝っています。
ここは、祝賀会や、コンサート、会議など、盛大な催し物に利用されています。
この玄関前から、ぐるりと一回りして、裏側の庭も、写真を撮るのによいスポットのひとつです。

プファルツ選帝侯博物館

開館時間:(火)〜(日)10〜18時

休館日:(月)

入場料大人 3ユーロ(16歳までの子供は、無料)

ヴィンツハイムの十二使徒

ハイデルベルク原人の下あご

中庭

ハウプト通りのなかほどにあるプファルツ選帝侯博物館は、1712年に、ハイデルベルク大学の法学部教授であったフィリップ・モラスの館として建てられ、1905年以降は、市の所有になり、博物館となりました。
ハイデルベルクを治めた選帝侯の収集品として、絵画や彫刻のほかに、素描画、工芸品、服飾、高価な食器類、装飾品、考古学発掘品など幅広い分野において、ハイデルベルクの歴史を彩った品々が集められています。

まず、17-18世紀のオランダ、フランドルの絵画や、19-20世紀のロマン主義は絵画が飾られており、絵の好きな方には、喜ばれるでしょう。
選帝侯の家具や、陶器が、配置されて、当時の室内を再現したところも公開されていて、選帝侯の豪奢な暮らしぶりが、しのばれます。

最も有名な展示物の1つは、大彫刻家のティルマン・リーメンシュナイダーの1509年作のウィンツハイムの「十二使徒祭壇」でしょう。
この展示物ために、一室が使われ、別格の扱いになっています。その前には座ってゆっくり鑑賞できるようにベンチが置かれています。
この使徒に囲まれ、宇宙や世界を説くキリストは、色づけされていませんが、本来色づけされる予定だったということです。
人物の表情、髪、手のしぐさ、衣服の襞まで、細部にわたり写実的に彫られていて、その豊かな表現力に引き込まれます。
今から、500年以上前に、彫られていたとは、驚くばかりです。

さて、もうひとつの目玉は、ハイデルベルクの名を一躍有名にした起源53万年前のハイデルベルク原人(Homo Heidelbergensis)の下あごの骨の展示です。

博物館の中庭は、小さな池があり、パラソルの下で、お茶を飲んだりして、寛ぐことのできる穴場です。

大学広場周辺

ハイデルベルク大学
大学広場について。

大学広場は、メインストリートのハウプトシュトラーセの中ほどにあります。
大学広場には、旧大学校舎の前に、このプファルツ選帝侯の紋章である「ライオン」像があります。
ライオンは、権力の象徴として、王錫と地球儀を持っており、ドイツ皇帝を選ぶ選挙権をもつ7人の選帝侯のなかでもプファルツ選帝侯は、最も重要な地位にあり、ドイツ皇帝が不在の時は、代理を務め、戦争の指図や貨幣を鋳造する権利を持ち、帝国議会の裁判長でもあったということです。

ハイデルベルク大学について

ハイデルベルク大学は、1386年創立、ドイツ最古でハイデルベルクの発展にとって、決定的な意味を持っています。

●創立後、多くの学生が集まったのには、次のような事情によります。
14世紀後半、教会分離(シスマ)が起こり、フランスのクレメンス7世が、アヴィニヨンに、そしてローマにウルバヌス6世がと二人の法王が存在するという事態になりました。ドイツの選帝侯は、ローマの法王を支持したため、パリに学んでいたドイツ人学生が、パリで学位をとるのが難しくなり、プラハに移りました。

しかしプラハ大学では民族闘争でゆれており、チェコ語で講義が行われていたため、学生たちは、よく理解できませんでした。
ハイデルベルクのプファルツの選帝侯ルプレヒト1世は、プラハのカール4世の勧めもあり、ドイツに大学を創立することにし、1385年ローマ法王ウルバヌス6世により大学設立の許可を受け、1386年正式に大学を発足させました。
上記パリ、プラハ経由の学生のほか、ペストの大流行で、他の大学への転出を望んでいたウイーン大学の学生もハイデルベルクに殺到し、ハイデルベルク大学は、創立まもなく500人以上の学生を抱える大きな大学となりました。

●最初の講義は、大学広場にあったアウグスティーナ修道院で行われたが、当初は、「神学」「哲学」「医学」「法学」の4学部から成っていました。大学の創立により、町は活気づき、大学関係者は、税金を免除されるなど特権が与えられていました。
30年戦争、プファルツ継承戦争の打ち続いた戦争のため、大学も存続の危機に見舞われたこともありましたが、1803年バーデン大公カール・フリードリッヒのもとで再興された。ハイデルベルク大学は、創立者ルプレヒト1世とカール・フリードリッヒのラテン語名を合わせて、正式名を「ルプレヒト・カローラ。ハイデルベルク大学」といいます。

●現在、大学は、9つの分野、18の学部を持ち、3万人近い学生が在籍している。
ハイデルベルク大学は、門や塀があるキャンパスではなく、郊外のノイエンハイマーフェルドに、自然科学系統の学部が分散し、旧市街のあちこちに、校舎が分散しています。観光客にとっては、どこに大学が?と思われるかもしれませんが、まさに町の中に大学が、大学のなかに町があるというような状況で、大学が町に溶け込んでいます。

ハイデルベルク大学では、活発な研究が行われており、それぞれの分野で優れた業績があり、今までに13人のノーベル賞受賞者を輩出しています。
日本からも、昔をたどると、経済学者大内兵衛、哲学者の三木清、歴史学者の羽仁五郎など、名高い学者が、留学しています。

●白壁に赤い窓枠の建物は、旧大学校舎で、大学発祥の地です。
18世紀初頭の建築で、1886年の大学創設500周年の際に、2階に「大学講堂」(アルテ・アウラ)が建てられました。
正面の壁画は、知の女神アテナがハイデルベルクに到来するところを表現しています。
全体に重厚な木彫りの装飾がなされ、荘重な雰囲気を出しています。
ここでは大学の記念行事や講演が行われますが、行事がないときは、入場可能。
大学講堂は、2階、荘厳な雰囲気が素晴らしいので、時間があれば、のぞいてもらいたいスポットです。
入場料:大人3ユーロ。(学生牢 大学博物館と共通)
8歳以下の子供は入館無料。
チケットは大学ショップで購入可能。
ハイデルベルク・カードで割引あり。
講堂は月曜日閉館。

新大学校舎

●旧大学校舎から、見て山側にある、簡素な白い建物が「新大学校舎」

●第1次世界大戦後、ハイデルベルク大学を卒業したアメリカ人の同窓会の50万ドルの寄付を得て、建てられました。
大教室の多い校舎で社会学や史学科の学生がよく使っています。毎年、ドイツ語の夏季講座が開かれる拠点になるのもここです。
扉のところに、大学の守護神として知の女神「アテナ」が掲げられ、「活力ある精神に」と記されています。
講義が終わったら、学生が、校舎からあふれ出してきます。
バス乗り場「大学広場前」もあり、疲れたなら、バスで、ビスマルク広場まで戻るころもできます。
そのバス停近くに、文房具屋や本屋、特に「ZIEHANK (ツイーンハンク)」は、品揃え豊富で、のぞいてみるのも楽しいでしょう。

学生牢

学生牢入り口

旧大学校舎の裏側の通りは、「アウグスティーナー・ガッセ」(Augstinergasse) ですが、ここに以前のままに保存されているのが、有名な学生牢です。昔は、ハイデルベルクの町は大学の構内の一部でということで、治外法権でした。
だから、学生がいろいろ問題を起こしても警察が介入できませんでした。
そこで大学当局は、自ら学生を処罰する牢屋を作りました。

●学生牢が、実際に使われていたのは、1712年から1914年までの約200年間で、どういった学生が入っていたかというと、一言でいうと、行儀の悪い学生でした。深夜、町の人の迷惑を顧みずドンちゃん騒ぎをしたり、酒場で仲間と小競り合いをしたりして椅子やテーブルを壊した学生。時には警察にたてついて、そのために牢屋に入れられる骨のある学生もいました。
だから、ここに入ることは、カッコイイというか名誉なこととされ、卒業までに一度は、入りたいと当時の学生は考えたといいます。

●どのくらいの期間、この牢屋に入っていたかというと最低3日間、長い人で4週間という記録もあります。
最初の3日間は、パンと水のみ、4日目からは差し入れも許されたとのことです。

●学生達は、ここに入った記念に自分の似顔絵を、当時の流行であった影絵として描き、自分の名前を落書きとして残しました。
影絵の多くに帽子も描かれていますが、帽子はその学生が所属した学生クラブのもので、この帽子が日本に入って、学生帽の原型になったといわれています。落書きする壁のスペースがなくなってくると、友達に肩車でもしてもらったのでしょう。
天井にまで、ろうそくのススを使って描いて、部屋の壁中、学生の影絵だらけです。

●学生達は、ひとつひとつの部屋に「サンスーシ」「グランドホテル」と優雅な名前をつけています。
トイレは、「戴冠の間」とあり当時の学生のユーモアのセンスがわかろうというものです。
タブロイド版の写真が、部屋に飾れていますが、これは150-160年前の学生のもので、写真が出回るようになって、落書きの代わりに、写真を持参してきて、自分の入牢の記念においていったそうです。

●牢屋の隣は、大学の校舎であり、授業に出ることは奨励されていて、授業が終わると管理人が赴いて、学生を学生牢に連れ帰ってきました。入牢している本人達は、けっこう行き来ができて、おもしろおかしく、このおしおきの数日間を過ごしたといいます。
むしろ滞在が延びれば延びると、本人は自慢で、それは、「男の勲章」であったといいます。

学生牢

営業時間:10〜18時(4/1〜9/30)、10〜16時(10/1〜3/31)

定休日:月曜、11〜3月の日曜

入場券大人3.00ユーロ、大学博物館、旧講堂との共通入場券

大学図書館

●300万冊以上の蔵書を誇る南ドイツ最大の図書館であり、ハイデルベルク大学の学生が、最も時間を過ごすところ(笑)。
1905年に建築家ヨゼフ・ドゥルム(Joseoh Durm)により、大々的に改築され、1978年に自然科学系統の書物を納める図書館は、ノイエンハイムにも設立されました。図書館の正面ファッサードは、ルネサンス以降の様式が、(特にアール・ヌーボー様式)混ざりあっており、学問の神アテナの頭像が、上部にあり、その下には、バーデンの紋章(1803年プファルツは、バーデン領になったので)が掲げられています。
建物自体が、とても美しいので、写真スポットとしてお勧め!

●非常に有名な古文書は、1888年ドイツ帝国が、多額の費用でパリの国立買い戻した、「マネッセ写本」(Codex Manesse) である。
この「マネッセ写本」は、プファルツ選帝侯の個人蔵であり、「30年戦争」の混乱からも無事で、138の美しい挿絵の140の詩が載っており、ドイツ中世の大変貴重な写本で600年以上前の本ととても思えないほど、色が克明に美しく残っており、感激します。
大学図書館の蔵書室に、その1部を見ることができます。大学図書館は、原則として無料で入れるので、(本を借りるには、学生証の提示が求められる)図書館入り口の階段を上がったところにある蔵書室に、ぜひ立ち寄ってもらいたいです。
ほとんどの観光客が見逃しているのが、残念です。

●その「マネッセ写本」のなかで、最も有名なものが、ワルター・フォン デア フォーゲルワイデ(Walther von der Vogelweide)を描いたものです。ワルターは、中世においてミンネゼンガー(恋愛詩人)として頂点にたつ人であり、彼が有名なミンネザング(中世騎士の恋愛歌)の最初の一節を書き出そうと思案している様子を表しています。ミンネザングのテーマは、女性崇拝とミンネ(愛)の奉仕です。
既婚の貴婦人の愛のために、自分を高め努力することであり、それは、成就することのない理想の恋愛です。
その目標に向かって修業することが「騎士道」として尊ばれたのです。

大学図書館

開館時間:(月)〜(土) 10〜19時

入場料無料

ペーター教会

●ペーター教会は、ハイデルベルクで最も古い教会です。
1196年ショーナウ修道院の文書で、初めてハイデルベルクの名と、このペーター教会のことが言及されています。

●城壁の外側にあったにもかかわらず、ハイデルベルクの管区教会で、聖霊教会ができるまで、町の中心的な教会でした。
1400年ルプレヒト1世により、大学付属の教会となり、現在は、プロテスタントの教会として毎日曜、ミサがあります。

●地下には、大学に貢献した教授連や、著名市民の墓になっています。
ここには、ヨーロッパで女性として最初の教授オリンピア・フルビヴィア・モラタ(Olympia Fulvia Morata)の墓もあります。
彼女は、イタリアから大学教授の夫ともに来て、ハイデルベルク大学で、ラテン語とギリシア語の教授となったが、惜しいことに1555年講義直前になくなっていまいます。しかし中世に、大学教授の地位に匹敵する女性がいたことは驚くべきことです。

聖霊教会

●聖霊教会は、プファルツのなかで、82mの最も高い塔を持つゴシック様式の建築で、選帝侯の墓が納められ、大学の祭宴の場で、ハイデルベルクのなかで、最も重要な教会です。
選帝侯ルプレヒト3世が、1400年前後に起工したが、内部、塔と順に建築され、今のような形になったのは1544年のことです。

●この教会も、ハイデルベルクを襲った2つの戦争によって大きな被害を受けました。
この教会に所蔵されていた「パラティーナ文書」といわれた蔵書は紛失を恐れて、すべて鎖につながれていたそうです。
そのように、大切に保管されていましたが、30年戦争の際、ティリー将軍は、この蔵書を、戦利品としてローマに運ばせました。
聖霊教会の椅子や机をこわして、運搬用の木箱が作られ、この貴重な蔵書が納められ、50の馬車に積まれて、持ち去られるのを、ハイデルベルクの人は、なすすべもなく見送るしかなかったといいます。
幸い19世紀に、その蔵書の一部がバチカンより返還され、現在大学図書館が所蔵するのは、その返却分です。
大部分のオリジナルは、いまなおバチカン宮殿にあり、大学図書館は、それらのコピーしか所有していません。

●1693年のプファルツ継承戦争時、フランス兵は、55もの選帝侯の墓を破壊し、難を逃れたのは、唯一ルプレヒト3世と妃のエリザベートの墓石だけだった。

●この教会は、政権を握る選帝侯の見解によってカトリック派、プロテスタント派と揺れ動き、長く紛争が続きました。
ヨハン・ウィルヘルムは、ハイデルベルクを再カトリック化するよう試みましたがたが、プロテスタント派の反対にあい、1705年聖壇と本陣に隔壁を設け、両派分けて教会を使うことにしました。1719年カール・フィリップは、すべてカトリック派が使用できるように隔壁をいったん取り払いましたが、両派の対立は続き、全国のカトリック派、プロテスタント派の関心事となり、またもや宗教戦争になる危機に陥りました。
しかし結局、カール・フィリップは、ドイツ皇帝達の干渉を受け、再び隔壁は設けられ、これ以降また、教会の二分割が続きました。
この紛争で腹のおさまらないカール・フィリップは、「ハイデルベルクなぞ、荒野になるがいい」と言い捨てて、マンハイムに移ってしまい、そこに宮殿を建てさせました。聖霊教会は、ハイデルベルクの宗教対立の舞台になった象徴的な場所だったのです。

●1886年、大学の創立500年祭の時、一時的に隔壁は、除去されました。

●1936年、プロテスタント派がカトリック派から、権利その他を買い取ることで、ようやく長く続いた争いは、決着しました。
その際の交渉に活躍したのが、ヘルマン・マース牧師です。彼は、ユダヤ人住民を救った人で、町の人からも信頼が厚い人でした。
1925年、教会を脱会していた王制廃止後の帝国初代大統領のフリードリッヒ・エーベルトのために、葬式を行いました。

●聖霊教会内部に入ったすぐ左手の窓は、燃えるような赤のステンドグラスで、印象的な窓があります。
これは、大学の学部を象徴するようなデザインで窓を飾ろうというアイデアがあり、試みにひとつ作られました。
「物理学の窓」といい、聖書の引用と、広島に原爆投下された悲劇の日付が刻まれています。
赤いのは、愛でなく暴力を表現しています。

●教会の展望台からは、ハイデルベルクの素晴らしい眺望が楽しめます。
料金は2ユーロ、12歳以下の子供は大人1名と同伴の場合無料

礼拝は毎週日曜日の午前11時から行われていますので、その時間を避けて見学をしてください。
ぜひ、教会内にも入って、みどころを、確認してきてください。

マルクト広場

●英語で、市場のことをマーケットというが、ドイツ語では、「マルクト」といいます。
ここでも、水曜日と土曜日の午前中に朝市が開かれます。近くの農家の人が売る新鮮な野菜、卵、チーズ、花などが売られます。
若干スーパーよりも値段が高めですが、何より新鮮で、売り手と買い手はスーパーではないコミニュケーションを楽しんでいます。
ドイツ人は、マルクトで、買い物をするのが好きです。

●騎士の家

●聖霊教会の向かいに立つのが、現在ハイデルベルクで残る民館として一番古いのが、「騎士の家 ツム・リッター」です。
1592年、フランスから逃避してきたユグノー派のカルビニストで、裕福な生地屋さんであったシャルル・ベリエーが、建立したもので、1693年のフランス兵の焼き討ちに耐えて残った唯一の建物です。

●正面は、ルネッサンス様式の華麗なファッサードで、さまざまな彫刻がほどこされている。
特に1階左の立ち上がろうとしている雄羊は「ベリエー」は、この館の持ち主のベリエ氏を表していると言われています。
切り妻屋根の頂上に、守護神としてザンクト・ゲオルグの騎士の胸像があり、この建物が、「騎士の家」と呼ばれるのは、そのためです。

●現在、この建物は、ロマンチック・ホテル「Zum Ritter ツム・リッター」として営業しており、日本人のツアーが、昼食場所として、よく使うレストランでもあります。昼間は、正直グループ客で、ごった返していますが、夜は、エレガントな落ち着いたレストランに、がらっと、変わります。ホテルの部屋は、優雅なヨーロピアンです。

●ドイツの町には、まず広場があり、市民の飲み水の確保として真ん中に井戸があります。
ハイデルベルクには、マルクト広場には、怪力の勇士ヘラクレスの像を冠する井戸があります。
そして近くに、市民の精神的なよりどころとして教会(ここでは聖霊教会)がありそして町の行政の中心として、市庁舎があります。
町は、マルクト広場から、発展していったのです。

マルクト広場は、過去においては、裁判が行われ、処刑の場でもありました。
ヘラクレスの噴水のところに、1740年までトリラーという、大きな鳥かごのような簡易牢獄がおかれ、犯罪人を入れ、くるくる廻し見せしめにしたといます。今では、平和なお祭りが開かれる場所ですが、マルクト広場は、町の歴史の舞台となってきたところです。

●聖霊教会の向かいに立つのが、ハイデルベルクの市庁舎(Rathaus)があります。
この市庁舎は、プファルツ継承戦争で、町が破壊されたあと、復興後18世紀の初頭に建てられたバロック様式の建物です。
その後何度も、増築されています。

●市庁舎の窓には、夏なら、赤いゼラニウムの花のプランターが置かれ見事ですが、正面を見て、一番左端の窓は、結婚式がとりおこなわれるところです。つまり、市庁舎の一室で婚姻届を出すことが、ドイツでの結婚です。
媒酌人にあたる立会人2人と一緒に、新郎新婦が出頭して、宣誓、署名します。
指輪の交換もここで行いますが、新郎新婦は、日本ほど着飾るわけでもなく、あっさりしたものです。
でも、これは、れっきとした法律上の結婚式なので、代理で済ますようなわけにはいきません。
人によっては、このあと宗教上の結婚式として、教会で式を挙げます。
運が良ければ、結婚式を挙げたばかりの幸せなカップルが、市庁舎から出てくるところに、出会うことがあるかもしれません。

コルンマルクト

●マルクト広場を過ぎて、メインストリートのハウプトシュトラーセの左に見えてくるのが、コルンマルクトです。
「穀物広場」を意味するコルンマルクトに行くと、急に開けた空間に、ハイデルベルク城の雄姿が眺められ、あっというほど、素晴らしいです。

●コルンマルクトの中央には、マドンナの像がありますが、これは、1718年ペーター・ファン・デン・ブランデンによるバロック様式の秀作で、(オリジナルは、プファルツ選帝侯博物館にある)再カトリック化を進めていたイエズス会が建立しました。蛇を退治して、天使がやりを持っているマドンナの姿は、好戦的であるが、蛇はプロテスタントを象徴しており、つまりプロテスタントの時代は終わり、新しく正しい信仰としてのカトリックを表現しているということです。

●コルンマルクトから、城側に向かう道を行くとハイデルベルク城に向かうケーブルカーの乗り場に到着します。  

カールス広場

●マルクト広場から、ハウプトシュトラーセ沿いに、コルンマルクトを越えると、まもなく広場が目に入りますが、これが、カールス広場です。
真ん中にモダンな噴水がありますが、これは、16世紀高名な宇宙物理学者、ヘブライ語学者であったセバスチャン・ミュンスターにちなんで、町が作ったものです。噴水には、地球儀が設置され、人間にとっての地球の重要性を、シンボル化しています。
カールス広場の地下は、大きな駐車場になっています。

●広場から見て、古城側にある白い建物は、1805年以来バーデン公の居館であったところでですが、現在は「学術協会」になっています。

●学生酒場
カールス広場を過ぎたあたりに、ハウプトシュトラーセに面してある左手に、2軒の有名な学生酒場があります。
「Zum Roten Ochsen」(ツム・ローテン オクセン)と「Zum Sepp'l」(ツム・ゼップル)です。

Zum Roten Ochsen

Zum Roten Ochsen

Zum Sepp'l

Zum Sepp'l

どちらも18世紀の初頭に創業と歴史を誇る。 戯曲「学生王子」(日本では、「アルト ハイデルベルク」としておなじみ)の舞台ともいわれ、古い写真やプラカード、落書きが一杯で、面白く、カジュアルな雰囲気の中で、ドイツビールを味わうのに、お勧めのところです。

ネッカーミュンツプラッツ

●ハイデルベルクで、大型観光バスが止められる場所は、きびしく規制されています。
ハイデルベルク旧市街は、原則的に徒歩で観光をする。ツアー客が観光している間、バスは、旧市街のはずれのこの広場に駐車することになります。学生酒場を通り過ぎてすぐの道を、ネッカー川に向かって歩いていくとたどり着きます。
もし、あなたがツアーに参加していて、ガイドや同じツアー客を探せなくなったら、「ネッカーミュンツ・プラッツ」を目指しましょう。
ハイデルベルクに住んでいる人なら誰でも知っているので、訪ねたら教えてもらえるでしょう。市のツーリストインフォメーションもここにあります。

●ネッカーミュンツ広場からも、道路をはさんでネッカー川がよく見えます。
ネッカー川はライン川の支流で、西20kmで本流のライン川と合流します。
マスが住む清流です。ときどき川べりで、釣りをしている人を見かけます。
洪水を防ぐため27の水門があり水の量を調節しています。
このネッカーミュンツプラッツから、逆に、古い橋のほうに向かって、写真を撮るのに、いい場所になっています。

古い橋

●正式名は、カール・テオドール橋ですが、通常アルテ・ブリュッケ(古い橋)といわれています。
実際、名前のとおり、町でも最も古い橋で、長さ約220mあります。
橋にある門は、もともと中世の頃、町の城壁の一部だったといわれています。
夜は、落とし格子の柵がおり防御施設としての役割を果たした。
その左右の橋の塔は、牢屋として使われていたこともあったといいます。
窓から、町の風景が眺められるこの明るい牢屋に入れられるのは、たいしたおしおきにならなかったようで、負債者など罪の軽い人たちが入れられていたそうです。

●200年くらい前はまでは、この橋は、屋根のある木の跳ね橋であった。
洪水で流されたりして、何度も建て直しされ、現在の橋は、8番目の橋です。
橋は、海面98mのところにありますが、橋げたのところに洪水で水があがった印が年号とともに記されているので、見てきてくださいね。

●現在のような石の形の橋にしたのは、この街を治めた選帝侯、カール・テオドールで、彼の銅像が立っています。
台座のところに、ドイツを流れる代表的な川(ライン川、ネッカー川、ドナウ川、モーゼル川)の神を表す彫刻像がとりまいています。
カール・テオドールは、たくさんのものを作ったといわれます。この橋と、ハウプト通りのつきあたりにあるカールス門、ハイデルベルク城にある世界一のワイン樽、それから、253人の私生児をつくったそうです。しかし、実子は、産後まもなく死亡。
カール・テオドールは、そのためか助産婦の学校を設立しています。

●橋のたもとに、サルの像があるのに気がつくことでしょう。

これには、いくつかのエピソードがありますが、そのなかの一つを紹介します。
昔、若い恋人たちが、結婚前に愛し合って、女性は、妊娠してしまいました。
「できちゃった婚」は、当時は大変なスキャンダラスなことだと、時の選帝侯は、ふたりを町から追い出してしまいました。
怒った彼らは、腹いせに選帝侯に似せたサルの絵を描いて、以下の文句を書きつけました。
「何で私のことを、珍しそうに見るのか?ハイデルベルクのあちこちに、私と同じような人を見つけられるというのに。」
サルは、エッチなことの象徴だと言われます。サルの指は、私達の方に向けられており、手には鏡を持っています。
選帝侯のカール・テオドールは、たくさんの私生児を作ったのは、お話しましたよね。
偽善者ぶって、人を裁くことができるのか。みんな似たりよったりじゃないかという皮肉をこめた批判とも受け取れますね。

サルのそばに、ねずみがいるけれどどうしてか?サルだからバナナでも置いたらいいじゃないかと考えられるかもしれませんが、バナナとハイデルベルクは関係はありません。
昔この近くに穀物倉があったことから、納屋にねずみがいたという連想を強引に引っ張り出し、ここにねずみが置かれるようになりました。
町は、このエピソードに従い、この像を作ったということですが、これはハイデルベルガーのユーモアというもの。
このサルの頭のところに、人間の頭を入れて写真をとってもらうと、ユニークな記念撮影となるので、お試しください。

●古い橋のたもとに、ステンレススチールでできたキラキラと輝くモダンな遊覧船の発着駅があります。遊覧船は、太陽のエネルギーを動力源とする「ネッカーソーラー号」です。さすが、エコの先進国ですね。乗船料金は、大人6.5ユーロ 子供3ユーロ 50分間の遊覧です。
船に乗ると視点の高さが、まったく変わるので、両岸に見えてくる景色を満喫できます。
ゆったりとした気分になれるソーラーボートの遊覧は、お勧めです。

哲学者の道

●カール・テオドール橋を渡りきり、ネッカー川のほとりから、ハイデルベルク城を振り返ると、お城と橋が入った「誰でも絵葉書写真」といったショットが撮れます。

ベストショットを目指すなら、もっと標高の高い「哲学者の道」(Philosophenweg)まで上がるかありません。

哲学者の道

哲学者の道からの眺め

古い橋を渡ったところに、蛇の小道という意味のシュランゲンヴェーク(Schlangenweg)、「哲学者の道」(Philosophenweg)への歩道を示す看板があります。
かなり急で細いうねった坂道で、けっこうきついです。歩きやすい靴で行かれることをお勧めすします。
20分くらいあがって疲れたなあと思うころ到着します。そこからの眺めは、苦労して上った甲斐があったと思わせてくれること間違いない素晴らしさです。高さがあるので、最高のパノラマが開けるのです。多くの詩人や哲学者が実際に歩いて思索にふけった散歩道なのですよ。
哲学者の道から、写真を撮るなら、光線の具合から午後からのほうが、いいと思います。

ハイデルベルクの旧市街の観光的な見どころは抑えてお伝えできたかと思います。
でも、ハイデルベルクを訪れた旅人は、自分だけのお気に入りの場所を、きっと、見つけられるかと思います。
ハイデルベルクのメインストリート ハウプトシュトラーセを少し外れた小道などに、お気に入りの風景やカフェを発見っていうことも、大いにあると思います。

最後に、そんな一筋、メインストリートから外れたところにある、有名なチョコレート屋さんをご紹介します。
1863年創業のハイデルベルク最古のカフェ、クネーゼル(Café Knösel)が、作ったプラリネチョコが、「学生のキス」と名付けられています。
パッケージが、キスシーンの影絵になっていて、とってもおしゃれ。クネーゼル氏が開いたカフェに、花嫁学校に通う女子学生が集まるようになり、繁盛しました。
すると、お目当ての女子学生に近づくために、ハイデルベルク大学に通う男子学生も、カフェ・クネーゼルに来るようになったのです。
そこで、クヌーゼル氏、ウェハースを底にして、ヌガーの入りのプラリネチョコを、「学生のキス」として、売り出したところ、大当たり。
恋した男女が、自分の想いの証として、このチョコレートを贈りあうようになったのです。
「学生のキス」が生まれて150年以上が経った今でも、初代クネーゼル氏が発案したレシピは代々受け継がれ、当時の製法が守られています。

著名人も訪れていて、たとえば、オバマ夫人ことミシェル・オバマさんの切り抜きが飾ってあったりします。
「学生のキス」は、恋にも効くチョコレートかもしれませんから、ハイデルベルクで、マストの買いのお土産です。

カフェ・クネーゼル

チョコレート 学生のキス

お役立ちコラム

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