愛しのハイデルベルク No1 概況と歴史

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愛しのハイデルベルク No1 概況と歴史

赤いレンガの旧市街の町並みと、ネッカー川と古城の織りなす美しい調和のあるドイツの街 ハイデルベルク!
ここは、私が、10年ほど過ごした街であり、ドイツの中で、一番、思い入れのある街です。
1990年代、私は、ハイデルベルク観光局の公認ガイド(日本語)として、当時主に団体旅行で来られるツアーのお客様に、ハイデルベルクを案内していました。

これだけ、ネット環境が進み、調べればいくらでも情報を得られる時代であっても、ハイデルベルクという街を包括的に、紹介する記事は、あまりないので、このお役立ちコンテンツに入れることにしました。私が、観光ガイドとして、案内していたエッセンスを突っ込んで、お客様に案内していたことと、もう少し突っ込んでハイデルベルクという街を語ってみたいと思います。

ハイデルベルクまでのアクセス

ほとんどの旅行者にとって、ハイデルベルクまでは、汽車での移動になるかと思いますが、これは、ドイツ鉄道のサイトで、簡単に調べられます。

日本の乗り換え案内のように、乗車地と、降車地を書き込み、希望日時間を入れるだけですので、マスターしておくと、とても便利です。
画像のように、駅名、

Heidelberg Hbf

Hbf(Hauptbahnhof ハウプトバーンホフ)中央駅の意味で、ドイツ鉄道のホームページでも駅名について、よく出てきます。
フランクフルトから、ハイデルベルクまで、乗り換えなしに行くとしたら、50分くらいで到着します。

ハイデルベルクカード

ハイデルベルクの駅は、殺風景なものです。
ただ、出たところにツーリストインフォメーションがありますから、ここには、立ち寄って、ハイデルベルクカードをゲットしましょう。

ハイデルベルク駅

ハイデルベルクツーリストインフォメーション

ハイデルベルクカードのパンフレット

  • 1日券15ユーロ
  • 2日券17ユーロ
  • 4日券19ユーロ
  • 2日券36ユーロ(ファミリー)

特典

ハイデルベルクを走る市電や、バスが、乗り放題になり、ハイデルベルク城までのケーブルカーとさらに、見晴らしがよい高台まで行けるケーブルカーの往復乗車券と、ハイデルベルク城の入場券(7ユーロ)がついています。
またハイデルベルクカードを購入すると、日本語のハイデルベルク地図(1.5ユーロ)も、もらえます。
この地図も頼りになります。これを持って、ハイデルベルクを闊歩しましょう。

また、ハイデルベルクカードの提示によって、割引の優待が受けられる施設情報も記載されています。
ハイデルベルクカードは、観光客にとって、「買い」です。

素顔のハイデルベルク

ハイデルベルク (Heidelberg) は、南西ドイツ、バーデンヴュルテンブルク州のオーデンワルドの森の端に位置し、ライン川の支流であるネッカー川が流れています。この町は、何より選帝侯の居城だった古城と、ドイツ最古の歴史を誇る大学のある街として有名です。第二次世界大戦の被害は、受けていませんが、戦後アメリカ軍が、駐屯し、NATOの事務系統の総司令部が置かれている基地の町でもあります。
人口14万人強アメリカ人軍関係者が、約2万人、学生が、2万5800人、大学町としての活気があります。
そのうち、約3000人が外国人留学生で、その出身国は、世界80カ国にわたるということです。
工業は、そう盛んでなく、(大学が最大の雇用者というのですから)、文教都市です。
学生にとっては、企業もないので、就職して落ち着く街ではなく、学生生活を終えたら去る街という印象はあります。

ハイデルベルクは、古城街道上にある年間350万人もの観光客が訪れるドイツ有数の人気スポットです。
実際、古くは、ゲーテから、アイヘンドルフ、ヘルダーリンなど、多くの詩人や芸術家が訪れた町であり、日本のオールド・ドイツファンに人気のある、マイヤー・フェルスター作の「アルトハイデルベルク」の舞台でもあります。

その見どころは、旧市街に集中しているので、観光客としては、徒歩で迷うことなく観光できる歩きやすい街です。
地元民は、旧市街周辺の地域ではなく、バス、市電で移動できる地域に、住んでおり、ドイツの街としては、総合的に言って、大きくもなく小さくもない中都市で、住みやすい街といえます。

穏やかな気候で、雪もそう積もることなく、ドイツのどこよりも早く春の花が咲くとも言われます。
3月にすでに、アーモンドの木が、満開になって、日本の桜みたいだといつも思っていたものです。

赤いレンガの旧市街の町並みと、ネッカー川と古城と緑のおりなす美しい調和は、今なお変わることなく、私たちを惹きつけてやみません。
「私は、ハイデルベルクに心をおいて来た」という有名な歌がありますが、このロマンチックな街に心を奪われるのは、私だけではないはずです。

なぜハイデルベルク城は、廃墟なのか?少し詳しいハイデルベルクの歴史

1620年頃の最盛期のハイデルベルク城

城というと、ノイシュバンシュタイン城のような白亜のお城を想像される方も多いかもしれませんが、ハイデルベルク城は、赤色の砂岩が使用されており、壊れたお城、廃墟です。では、どうしてそうなったか、少し詳しいハイデルベルクの歴史を、説明しましょう。
この歴史を知っておくと、ハイデルベルク城を観光するのにも、理解の助けになるでしょう。

では、いきなりですが、530,000年前からさかのぼり、世界史の授業で出てきたハイデルベルク原人のことを、思い出していただきましょう。

530,000年前

ネッカー川の波に洗われて、砂地に埋まっていた推定53万年前の原人(Homo Heidelbergensis)の下あごの骨が、ハイデルベルク近郊のマウアー(Mauer)で発見されています。ヨーロッパ最古のもので、オリジナルは、ハイデルベルク大学古生物学研究所にありますが、コピーは、市内の見どころの一つであるプファルツ選帝侯博物館で見ることができます。

1196年

ハイデルベルクのことが、初めてショーナウ修道院の文書に登場。当時の教会に残された文書が歴史の手がかりになったと言われます。

1386年

1356年の黄金勅書により、ドイツ国王は、7人の選帝侯により、選出されることになります。
その選帝侯の中でも筆頭の地位にあったプファルツ候ルプレヒト1世は、ハイデルベルク大学を創設します。
以降、ハイデルベルクを治めるのは、代々プファルツ選定候ということになります。

1518年

宗教改革で、有名なマルチン・ルターが、ウォルムスの帝国議会に召喚され、彼の95か条の論題を説明しにいく途中、ハイデルベルクに立ち寄りました。ルターの説に、当時のプファルツ選定候ルードウィッヒ5世も感銘を受けたといわれます。
彼は、ハイデルベルク城の建設に力をいれ、中世の要塞から、快適な住居館への転換をはかりました。

マルチン・ルターの石碑 1518年4月にハイデルベルクを訪れたことを示す。

1620年

フリードリッヒ5世は、イギリス国王の娘,エリザベス・スチュワートと妃に迎え、プロテスタント側に立ち、ボヘミアに赴きますが、翌年「白い山の決戦」にてフェルディナンド皇帝率いる大軍に破れ、一冬のみボヘミア王であったことより、「冬の王」といわれます。
1648年まで続く30年戦争は、宗教戦争から、ヨーロッパ各国を巻き込む国際戦争になりました。

1622年

カトリック側皇帝軍の名将ティリーにより、ハイデルベルクは、包囲、占領されます。
ティリーは、戦利品として、聖霊教会にあった有名なパラティーナ蔵書を、ローマに運び法王に贈ります。
大切な宝物が、持ち去られてしまったのです。

1671年

フリードリッヒ5世の息子、カール・ルードヴィッヒは、選帝侯となり、ハイデルベルク城に戻り、30年戦争で荒廃した町を復興させるために、フランスのルイ14世の弟、オルレアン公のもとに、娘リゼロッテを嫁がせます。リゼロッテは、なかなかフランスの生活に馴染めず、また夫も男色家であり、何かと苦労を強いられ、ままならない日常を手紙で叔母や友人に、手紙を書く事で、気持ちを晴らしていました。
虚飾に包まれたフランス宮廷では、率直なリゼロッテの言動や個性が、かえって異端になってしまったようです。
「リゼロッテ フォン プファルツ書簡集」は、何と日本語に翻訳されています。
「ヴェルサイユの異端公妃」ドイツとフランスの違いが、随所に見られ、当時の宮廷生活や、政治状況を知る資料となっています。

1689年

リゼロッテの弟の死後、ルイ14世は、プファルツ領を、リゼロッテの遺産として要求!
ハイデルベルク側が、これをはねつけたことから、プファルツ継承戦争が勃発しました。

1693年

フランス軍は、町、城ともに、ハイデルベルクを徹底的に破壊しました。
こういうわけで、ハイデルベルク城は、廃墟となってしまったのです。
ハイデルベルクの歴史をとってみても、ドイツとフランスは、隣国で大国どうし、戦争を繰り返してきたことがわかります。

1720年

カール・フィリップは、宗教上の紛争をきっかけに、宮殿をマンハイムに移しました。
それで、ハイデルベルクは、ますます荒れ果てることになりました。

1764年

歴代の選帝侯のなかでもユニークなカール・テオドールは、ハイデルベルクの城を改築する計画をたてましたが、城に雷が落ち、炎上したため、工事を断念しました。以来、ハイデルベルク城が、大々的に再建されることはありませんでした。
ハイデルベルク城は、廃墟でありながら、そうであるからこそ、歴史を物語、ハイデルベルクのシンボルで、ありつづけています。

1803年

帝国議会の決議により、プファルツの大部分は、バーデン大公国に編入されました。バーデン公カール・フリードリッヒは、大学を新しく再建しました。今も、大学名は、正式には、ルプレヒト・カール・ハイデル大学といいます。

1945年

ハイデルベルクは、第2次世界大戦の爆破を免れました。
ナチスドイツ時代は、ユダヤ人の教授、学生を排除したということもあったということですが、医学者、カール・ハインリッヒ・バウアー、哲学者カールヤスパース等の努力で、大学は、再興され、ドイツ有数の名門大学としての名声を誇っています。

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